メンバーが書いた投稿記事『暴走する資本主義』を読んでいて、犬養道子氏のエッセーをふと思い出した。
大学時代に敬愛する女流詩人のエッセーで読んだのか、読んでみたらと言われ読んだのか忘れたのだが、犬養道子氏の書物を紹介され、読んだのが始まりだ。
若いころに集中して読んだ記憶がある。引っ越しの際に資金がなく、多くの書物を古本屋に売って、手元には数冊だけ残っている。
その一冊の本のなかに、『「成功」とは何か』というエッセーがある。
犬養氏は成功至上主義に陥っている日本に危惧を抱いている。
成功至上主義は、いつも、国には無道徳の混乱と破廉恥とひいては崩壊をもたらした。社会には冷酷な差別や不公平や不正を生み出した。なぜなら成功至上主義の行きつくところは、生存競争であり、野蛮な弱肉強食だからだ。おちこぼれの人々を踏みしいて進む冷酷さだからだ。
もちろんここでいう成功至上は物欲面でのいいである。
暴走する資本主義の背後には成功至上主義がはびこっているのかもしれない。マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」は影を潜めているのかもしれない。
僕が行ったこともないアメリカを考えるとき、ある友人を正統的アメリカ人として考えるときがある。
成功至上主義とは迂遠な友が、国家の中枢で今どうバランス感覚を保ち、暴走する資本主義をどう泳いでいるのかと。
当時、犬養道子氏が書いていたコメントに対する僕の解釈をその友に、まさしくその友がエクセレントという僕のブリティッシュ・イングリッシュで語った時と同じ、哀しそうな顔をしているのだろうか。
それとも、クリントン政権時代に、クリントンの通訳としてヨーロッパを駆け巡った時に見せていたすがすがしい顔をもて、次の小浜政権に期待をしているのだろうか。
僕の知り合いから、都銀の頭取になった父がニューヨーク支店長だった頃に週末になるとニューヨークにある寺に一緒に連れて行かれた話を聞いたころがある。バブル全盛の時代であった時期、その父は週末朝から夜までひたすら般若心経を唱えていたという。
般若心経を唱えることでバランス感覚を維持していたのだろうか。
ある日本の首相は、かじ取りを間違わないように、毎日般若心経を写経していたという話もその婦人の話から聞いたこともある。
傍目からみると、成功している人物も心の成功は勝ち取ってはいないということだろうか。
犬養道子氏はこんなことをエッセーにも書いておられる。
「有名になった」「大成功者」と世間のさわぐ人々のかげに、今日もなお、いかに多くの「ほんとうの成功者」たちがいることか。「人さまによろこんでいただく」だけを(なんというすばらしい人生目的か!)願って、手をこっそり抜いてもべつにわからぬところにまで、心をこめる多くの職人、「まちがいないきれいな紙面を人さまに読んで、いただく」ために、だれからも名を知られぬところで、自分の仕事に精を出す校正・整理係。明日を担う青年たちや少年少女を育てる人々。等々々。
成功の定義のポイントがずれ過ぎているのかもしれない。そんなことを思っている。
犬養氏は書いている。
だが、-皮肉にも(人間の歴史が私たちに教えるように)成功至上主義哲学のはびこった国と時代と人々は、いつであれどこであれ、失敗に終わった。
暴走する資本主義の果て、そこには何が待ち受けているのだろうか。
MBCSは未知の世界に踏み出そう。
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