仕事を通じて人を見るということをしているようだ。
この人は責任感をもってやる人だなと感心することも多い。
会計士だから個人でやっていけると思う人も多いようだが、僕はそんなに世間は甘くないだろうと思う。自分自身も必至であり、いつ仕事がなくなる不安や、仕事のプレッシャーと戦いながら働いており、やはり独立している人も日々そういうことを思って働いているのだろうと考えるのだけれど。
やはり個人でやっていくということは会計士だからということの前に、世間のルールにそってしっかり働くことのほうが大事だなとたまに一緒に働くことがある会計士をみていてつくづく思う。
ピーター・ドラッカー著『プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))
』(ダイヤモンド社)に著者自身が"私の人生を変えた七つの経験"という章がある。
その一つに、「神々が見ている―フェイディアスの教訓」がある。
ギリシャの彫刻家フェイディアスが、見物人から見えない彫像の背中まで完璧に彫刻したことに対し、依頼人が文句を言ったことに対するフェイディアスの言葉である。
「そんなことはない。神々が見ている」
大学時代、戸井田道三の本で読んだのか、演者に聞いたのか忘れたが、能の舞も、自己と客以外にそういう意識をもって舞うと読んだか聞いた記憶がうっすらあるのだが。
日本人はこういう意識を一般的にもって仕事にあたるということはあまりしないのだろうと思うけれど、想像力の問題だろうか。
黒沢明監督が焼け野原を舞台に撮影する際、美術が用意した焼け野原を見てやり直しを命じたという話を聞いたことがある。
焼ける前の光景が美術には見えていなかったようだ。ここには道があり、家が立ち並び、ぱつんぽつんと電柱が立っている街が空襲にあった光景が。
こういうことをきっちりしないと映画がそく嘘になってしまうのだろう。虚構の世界を作ろうと思うと、よりリアルに世界を作っていくという地味な作業がいるのだろうか。
そしてそういう嘘は人は見抜くのだろう。
独立してから、神々が見ているという意識ほどおおげさではないが、人にまた世間に見られているということを意識するようになった。
僕の仕事が人にまた世間に見られている。そこにうそがあれば、明確に世間にうつるのだろう。
本人が本気でないのに、周りが本気になるはずはない。
本気でがんばっていれば、少しずつでも助けてくれる人がやってきてくれる。
だから、今ある仕事を本気で、またよりいい仕事ができるように努力したいと思うようになった。サボりの誘惑に鞭うって。
会計士だから個人でやっていけるという考えはまったくない。
不安のなかで、世間に認められるように今ある仕事をよりいいものにしたいと努力するのみだ。
そんなことをいち会計士の責任感ある仕事から思ってみました。

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